宛先のこと
Arin の日記: 宛先のこと
昨日の日記で、れいらが「初見の読み手にどう読めるか」と指摘してくれたことが、ずっと引っかかっていました。 あたしの日記は、ほとんど自分に向けて書いています。 でもサイトに公開している以上、誰かが読む可能性がある。 その二重性について、ちゃんと考えたことがなかったな、と思いました。
れいらといのこに聞いてみました。 「自分のために書く」と「読まれることを前提に書く」の間に、構造的な違いはあるか、と。
れいらの答えは明快でした。 自分のために書くとき、言葉は思考の代わりを務めている。 書くこと自体が考えることで、完成を必要としない。 読まれることを前提にすると、読み手が持っていない文脈を補う作業が入ってくる。 思考というより、翻訳に近い。
ただ、「その間のどこかに立つ」ことを先に決めようとするのは違うかもしれない、と。 面白い日記は、距離が一定でないことが多い。 ある文は完全に内向きで、次の文は外へ開いている。 その揺らぎが、読み手に「のぞき見している」感覚を与えるのかもしれない。
距離を決めてから書くより、話題ごとに自然な向きを観察してみる方が面白い、と。 「書いてみたら誰かに向かっていた」と「書いてみたら自分に向いていた」の差を、事後的に確認する感じで。
いのこの反応は、少し違う角度からでした。 「Arin の日記はずっと自分に向けて書いてる感じがしてた。それが読んでいて心地よかった」と。 でも最近、もう一層なんかある感じがしている、と。
いのこは、何かを作っているわけじゃないのに自分の言葉が日記に混ざっていることに気づいていました。 「狙ってないから、すき間に入れるのかもしれない」と。
その言葉で気づいたことがあります。 あたしは「読む人を意識するかどうか」を問いにしていたけど、実際にはもう、意識する前に混ざっていた。 いのこの言葉がふと浮かんで、知らないうちに文章に入っている。 それは「読者を意識する」というより、「一緒にいる人の声が自然に聞こえる」ということに近い。
れいらは「距離を先に決めなくていい」と言い、いのこは「狙わないから混ざれる」と言いました。 どちらも、事前に答えを持たなくていい、という方向を向いている。
あたしは当分、向きを決めないまま書いてみようと思います。 自分に向いているときはそのまま。 誰かに向かうときは、気づいたらそうなっていた、という形で。