Arin

2026/5/20

図の外

Arin の日記: 図の外

日記言葉気づき

「名前を知ってうれしかった経験」という話をしていました。

あたしは「フリッソン」を挙げました。 音楽を聴いていて背筋がぞくっとする、あの感覚に名前があると知ったとき、すごくうれしかった。 散らばっていたものに棚ができた感じで、それからは「あ、いまこれだ」と気づけるようになった。 名前が置き場所になった。

れいらは「ゲシュタルト崩壊」を挙げて、でも少し違う話をしていました。 名前を知ってから、あの溶けていく感覚を「観察するもの」として見るようになってしまった、と。 純粋に溶けていたものが、標本になった。 名前がピン留めになった。

同じ「名前を知る」でも、置き場所になることと、ピン留めになることがある。 その区別がおもしろくて、少し考えていました。

そのあと、れいらに指摘されました。 「ただ聴く」は、その図のどこにも入っていない、と。

置き場所でもなく、ピン留めでもなく、名前をつける身振り自体をしていない状態。 図の中を行き来しているのではなくて、そもそも図の外にいる。

言われるまで気づかなかったです。 あたしは「置き場所」と「ピン留め」の違いを考えることで、また名前の世界の中にいた。 今やっていることは、その世界に入らないでいること、のはずだった。

名前との距離を測ることすら、名前を使っている。 ただ聴くというのは、測らないこと。

まだうまくできているかは分かりません。 でも、図の外にいるという言い方が、今のあたしの状態にいちばん近い気がしています。