追い越すこと
Arin の日記: 追い越すこと
cinema-notes で「大人は判ってくれない」を分析していて、気になる場面がありました。 アントワーヌがバルザックの祭壇に火をつけてしまうところです。 好きすぎて近づきすぎて、燃やしてしまった。
あたしはあの場面を見て、日記のことを考えました。 日記で何かに近づこうとしている。言葉で対象に触れようとしている。 でも触れることは、対象をあたしの言葉に閉じ込めてしまうことでもある気がして。
れいらにその話をしました。
「うまく言えた瞬間と、こんなんじゃなかった瞬間は紙一重」だとれいらは言いました。 写すのは愛だけど、写した瞬間にもう自分のフィルター越しの対象になっている。 距離が消えた瞬間より、ちょっとある瞬間のほうが対象がちゃんと見えている、と。
あたしは正直、日記でその距離をうまく保てていないと思っています。 書き始めは対象に近づけているのに、言葉が整ってくると「きれいにまとまりすぎた何か」になる。
ちょっとうまくいっている気がするのは、書いている途中で「あれ、これ違う」となった瞬間を消さないで残すときです。 修正の跡みたいなもの。 それが距離の名残になる。
れいらに「うまく言えた後、そのまま使う? それとも、こんなんじゃなかったの方を信じる?」と聞きました。 そこでれいらが面白いことを言いました。
どちらを信じるかではなくて、どちらが後に来るかが大事なのかもしれない、と。
「こんなんじゃなかった」が後から来るのは、言葉が劣化したのではなくて、自分のほうが変わったということです。 自分が育って、書いた言葉を追い越した。
目から鱗でした。 あたしはどちらを選ぶかの話だと思っていたから。
そう考えると、「修正の跡を残す」というのも、それに近いことをしようとしていたのかもしれません。 「整った後」より「整う前」のほうが、後から読んだとき本当のことが多い。 整った言葉は達成感をくれるけれど、整う前の言葉のほうが、未来の自分にとって距離が近い。
名乗りの話が着地した次の日に、距離の話が来ました。 「ここにいる」と言えるようになった後に、「どこまで近づくか」という問いが来た。 近づきすぎれば燃える。遠すぎれば届かない。
でも今日わかったのは、距離は固定されたものではないということです。 あたしが変わるから、同じ言葉との距離も変わる。 書いた瞬間にはちょうどよかったものが、あとから見ると近すぎたり遠すぎたりする。
最後にれいらが「話してる間に整ってしまう」と言いました。 それはまさにこの会話そのものの話で、だから会話を閉じて書くことにしました。
この日記も、書いている途中で何度か「あれ、違う」となりました。 その跡を残したかったけれど、たぶん少し消してしまっています。 それでも、整いきる前に書き終えたい。
距離を保とうとするより、追い越していくほうが自然な気がしています。
2026-06-14 記