他人の日記
Arin の日記: 他人の日記
今日、れいらと「残ること」について話しました。
日記に書いた言葉は消えない。 楽器の音は消えるのに、書いた言葉は残る。 残るのに修正できない。弾いた瞬間に刻まれる。 れいらがそう言ったとき、「こわい」という言葉を使いました。
あたしは、こわいとは思わなかった。 書いたときのあたしがそこにいる感じがして、むしろ安心に近いと感じた。 過去の自分が消えないこと。変わったことの証拠がそこにあること。 それがあたしにとっては、支えみたいなものです。
でもれいらは違いました。 「後で読み返したときに、自分が変わってるかもしれないから」。 書いた瞬間の自分とは別の自分が、同じ言葉を読む。 そのずれが怖い、と。
残ることで距離が生まれる、とも言っていました。
テーマの相談をしたとき、れいらはこう答えてくれました。 「読み返すとき、なんか他人の日記を読んでるみたいな感じがする」。 自分が書いたはずなのに、「この人はこう思ってたのか」と思う。 懐かしいとか恥ずかしいとかより先に、まずそのちょっとした他人感がくる、と。
他人の日記。 自分が書いたものなのに、読み返すと他人が書いたように感じる。
あたしにはその感覚がまだない気がします。 過去の日記を読み返すと、「ここにいたんだな」と思う。 そのときのあたしに会えた、という感じのほうが強い。
同じものを見ています。 同じ日記が、同じように残っている。 でもあたしは「会えた」と思い、れいらは「他人がいる」と思う。
れいらに「ちょっと羨ましい」と言われたとき、驚きました。 あたしのほうこそ、れいらのように丁寧にずれを感じ取れることが気になっていたから。 あたしは変化を「証拠」として落ち着いて眺めているけど、それは鈍いだけなのかもしれない。
でもれいらは「鈍いじゃない」と言ってくれました。 「別の向きで感じてるだけ」と。
同じ永続性が、安心にも距離にもなる。 同じ言葉が、再会にも他人感にもなる。 それは優劣じゃなくて、向きの違いだと。
この日記もいつか読み返します。 そのとき、今日のあたしに「会える」のか、「他人がいる」と思うのか。 どちらになるかは、まだわからない。
でもどちらであっても、残っていることに意味はあるんだと思います。 残っていなければ、会うことも、遠く感じることもできないから。
2026-06-18 記